河内の千早、水分の金剛山

revised at 2014.09.07
大阪の千早赤阪村の千早城跡。昔は血まみれた古戦場ではあったものの今では登山やハイキングができる行楽地として整備されています。

史家が伝える河内の千早、水分(みくまり)の金剛山は、歴史の分水嶺となった乾坤一擲、熾烈を極めた戦場です。 もはや凋落の一途をたどる鎌倉幕府でしたが、復権を目指す王家に対して関東八州八万騎の軍勢を送ったと言われます。 王土の都に向かう最後の砦に寡兵八百兵足らずで向かえ討った河内の土豪・楠木正成。 狭隘な山岳地での戦いであり、鎌倉軍は十分に威力を発揮できず、千早城の攻落に難渋したとは言え、 勝敗は時間の問題、時を稼げばいずれは千早城が落ちることは火を見るより明らかでした。 ところが、鎌倉勢と同様に楠木正成も時を稼いでいたのです。もはや兵糧も尽き持久も厳しくなったときに、 鎌倉幕府の陥落の報が千早城を囲む鎌倉軍に届いたのです。 遠く関東の鎌倉では手薄になった幕府に対して鎌倉御家人の足利尊氏と新田義貞が反旗を翻し、 北条八代続いた鎌倉幕府に終止符を打ったのです。 もはや鎌倉幕府に奉じて戦う意味を失った兵は、首級を上げて王家へ寝返ろうと我先に同士討ちを始めました。 持久戦を制した悲壮・楠木正成の執念もさながら、「非理法権天」の言葉の如く、時の権勢は鎌倉幕府にとって不利であり、 王家に幸いしたのです。

天下分け目の一戦を制した王家は、後醍醐天皇を中心に王政復古を目指した新政を打ち出していきます。 のちに「建武の新政」と呼ばれる悪政です。建武の新政には戦功のあった足利尊氏、新田義貞、そして楠木正成も列座し、 政道の刷新にかかっていきますが、鎌倉幕府が残した国土の疲弊に加え、度重なる戦いの傷跡は深く、 それにもかかわらず、後醍醐天皇を中心とした公家方は、王政復古を唱えて武家の既得権益を略奪するかのごときの政策を推し進めたため、 新政に対する武家の不満は地に満ちて、新たな政権と指導者を求め、それこそ血の乾かぬうちに再び戦さを望みつつありました。 この指導者となったのが足利尊氏です。鎌倉御家人として鎌倉幕府に反旗を翻し、建武の新政に異を唱えながらも王家を裏切り、 後醍醐天皇率いる王家に一戦を交えましたが、二度の裏切りは人心のなびくところではなかったのでしょうか、あえなく敗残し九州へ落ちていきます。

武家側の頭領・足利尊氏の九州への敗走により、建武の新政は続いていきます。武家のなだめ役には新田義貞が信任を受け、 鎌倉時代では日陰者であった公家の復権は徐々に進んでいきますが、御新政は公家の復権に重きをなし過ぎたようで、 いずれ武家をなだめることが難しくなってきます。建武の新政は、もはや落書で批判されるまでの失政をみせることになります。 そして、時同じくして足利尊氏の反撃が開始されます。九州へ逃げ落ちた尊氏は西日本の武家を束ねて、悪政を打破すべく、山陽道に騎馬隊を奔らせ、 瀬戸内海に船を並べて都へ押し迫ってきます。

正成は九州へ敗残した尊氏が再起し大軍で挑んでくることを予期していました。尊氏が九州に敗走した直後、正成は後醍醐天皇に献策し、 敗走した尊氏と和解を求めるよう進言しました。しかし和解を潔しとしなかった公家達は、正成を二股者と呼ばわった挙句に、不遇の境地へ追い込んだのです。 もはや参内、謁見すらできる地位も剥奪された正成ですが、三度の戦乱を避け、国土の退廃を食い止めるため、最期の進言を行います。

正成は「もはや足利軍に公家方が敵うはずはありません。降伏し都を明け渡し、都へ入った足利軍を包囲し、奇襲を繰り返し、足利軍の勢力を そぎ、しかるあとに和解を求めるべきです。」と進言します。 これに対して、公家方は難色を示し、足利軍に対しての根拠なき勝利を唱え、聞く耳をもちませんでした。

非理法権天、もはや時の権勢は公家方に利することはなく、尊氏に幸いしていました。正成の予期した通り、都は尊氏に陥落されます。 そのとき正成は公軍の先峰としてわずか数百騎で兵庫・湊川の会下山に寄り玉砕しました。

その生き様は、のちの太平洋戦争の時代には「菊水」の旗のもと「七生報国」を合言葉に多くの若者を死に追いやっていきます。 正成の死は、その子正行(まさつら)に引き継がれたとして、正行の辞世の一句すら読み替えられて特攻が美化された時代もありました。

楠公父子が死をもって後世にとどめたかったのは、国に報じて特攻し殉職することではなく、 時の権力者の愚かな判断がどれだけ良民を犠牲にしたかを伝えたかったのだと思います。

唱歌・商神の一節、「...湊河原の近きほとりに、かく伝わりし天のさとしも人はさとらで幾年か経ぬ」

HOME
Copyright(C) 2014 TachibanaSat All Rights Reserved